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東京地方裁判所 昭和40年(ワ)5203号 判決 1966年4月28日

原告 尹仁錫

右訴訟代理人弁護士 貝塚次郎

被告 株式会社平和相互銀行

右代表者代表取締役 小宮山英蔵

右訴訟代理人弁護士 五十嵐芳男

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一、原告が日本名を平野弘政という韓国人であること、原告が昭和四〇年一月一〇日頃(その名義人が誰であるかの点は争があるが)被告銀行新宿支店に当座預金口座を開設したこと、原告が昭和四〇年二月四日尹仁錫名義で振り出した金額一〇八、〇〇〇円、満期四〇年四月五日、支払場所平和相互銀行新宿支店という約束手形(以下、本件手形という。)一通が満期に被告銀行新宿支店に支払のため呈示されたが、同支店は「取引なし」との理由により振込銀行に不渡返却したこと、そのため原告は、同年四月八日、東京手形交換所から銀行取引停止処分を受けたこと、その後被告が東京手形交換所に対し、取引停止取消請求の手続をとり、右停止は同年同月一七日取り消されたことは、当事者間に争いがない。

二、原告は、「原告と被告銀行新宿支店との間に締結した当座取引口座の名義人は、尹仁錫および平野弘政の二つであり、小切手振出については平野弘政名義を、また約束手形振出については、尹仁錫名義を用いる旨の約定があった。」と主張するのに対し、被告は「右取引の名義人は平野弘政のみであり、原告主張のような特約はない。」と主張するから審究するに、原告本人尋問の結果中、この点に関する供述部分は、後記認定の事実に照らし当裁判所の措信しないところであって、これを他にしては、原告主張事実を認めるに足りる証拠は存在しないばかりでなく、≪証拠省略≫によれば、かえって、原告主張のような約定は成立しなかったことが認められる。即ち、原告は、昭和四〇年一月初旬ころ被告銀行と当座取引を開始しようとし、そのころ、同支店において、同行員である訴外鈴木馨とその交渉をしたところ、鈴木はこれを諒承したが、原告は右取引には、原告の日本名である平野弘政という名義を用いることを希望したので、右訴外人は、原告に外国人登録証と印鑑証明書の提出を求め、原告の日本名が平野弘政であることを確認したうえ、原告の希望どおり平野弘政名義で当座取引を開始することになったこと、原告は右鈴木の指示に基づき、当座勘定約定書および印鑑届に、それぞれ「尹仁錫こと平野弘政」と署名し、印鑑届の表面にある印鑑照合用紙の署名および印鑑欄には、「平野弘政」と記載し、平野弘政の印章を押捺して同支店に差し出したこと、その後、銀行において当座勘定元帳を、その口座名義人を平野政弘として作成したこと、被告銀行の「事務取扱要領」によれば、当座取引は通称、偽名、芸名等本名以外の名義によってはなしえない旨、ただ外国人が取引に日本名を使用することを希望する場合には、外国人登録証によって日本名を確認したうえ、そこに記載されている日本名によってのみ口座を開くべき旨が定められ、外国人といえども、その本名と日本名とを同時に同一の銀行に届出で、外国人名による手形を日本名による口座で決済するような取扱はできないことになっていること、また、そのような取扱をした事例は、かつてなかったこと、原告が、被告銀行と当座取引を開始してから本件手形が同支店に呈示されるに至るまで約三ヵ月間に、原告振出の約束手形は一通もなかったが、原告振出の小切手七五通は、いずれも平野弘政名義で振り出されていることが認められるが、以上の各事実を総合して考えると、原告と被告銀行新宿支店との間の当座取引は、原告の日本名である平野弘政の名義でする旨の契約がなされたものと認めるのを相当とし、右認定を覆えすに足りる証拠はない。

そうとすると、被告銀行には、原告が尹仁錫名義で振り出した本件手形を平野弘政名義の口座から決済すべき義務がないものというべきであるから、原告の債務不履行を理由とする請求はその余の点について判断するまでもなく、理由がない。

三、そこで、原告主張にかかる特約の成立が認められない場合でも、被告が、本件手形を不渡返却したことは、被告の過失であり、不法行為として損害賠償の責任があるといえるかどうかについて考えてみるに、≪証拠省略≫によれば被告銀行新宿支店においては、同銀行が取引先から提出させる印鑑届用紙には、その表面に口座名義人の署名および届出印鑑を押捺し、外国人で日本名を取引名義人とする場合にはその用紙の裏面に、その本名を書き、実印を押捺した上、その届書の表面を表にして、名義人別にわけてファイルに綴じこんでおき、被告銀行新宿支店を支払人とする小切手、あるいは支払場所とする手形が同支店に呈示されたときは、係員は、振出人の名前をこのファイルにあたって索引し、その署名印鑑を照合し、もし振出人の氏名がこの届書から発見できないときは「取引なし」として不渡返却にするように処理されていたこと、本件手形が被告銀行新宿支店に呈示されたときにその振出人が尹仁錫名義であったので、同支店の係員は平野弘政とのみ記載されている印鑑届用紙の表面を綴じこんであるファイルからは尹仁錫名義の取引先を発見することができなかったため、これを「取引なし」として不渡返却したものであることを認めることができる。

以上認定した事実に基づき、被告銀行が本件手形を不渡返却にしたことにつき、過失があるかどうかについて考えるに、銀行が外国人名で振出された手形の呈示を受けた場合に、もしそれが届出名義人の中に発見できない場合には、その者が日本名を使用して取引をしているかどうかを一々調査しなければならないという業務上の注意義務を銀行に認めることは、銀行業務の実際に照らし到底容認できないところであるから、被告銀行新宿支店の係員が、その措置をとらなかったとしてもなんらその注意義務を怠ったものということはできない。また、被告銀行がファイルに綴じこむ印鑑届の表面に、尹仁錫こと平野弘政と書く等、右両名が同一人であることが容易に判明するような手段を講じておけば、あるいは本件のような事態の発生を未然に防止できたと思われるけれども、さきに判示したように、被告銀行では、当座取引の口座名義は一個に限定し、しかも必ず本名でなければならない旨の「事務取扱要領」があり、この規定は、銀行における当座取引の確実性を期する意味からみてまことに妥当な規定と認められるから、単一の口座取引先について二個以上の名義を併記することは右規定の趣旨にもとるものといわなければならない。外国人の場合には、本名と異なる日本名を名義人として取引をすることができることになっているのであるから、日本名をもって名義人とした場合においては、口座名義人の他に、もう一つ本名があることが予想されており、一般の場合と同一に論ずることは相当ではないとしても、仮りにかかる場合には、銀行は本名と日本名とをファイルに綴じこんだ届書の表面に併記し、その同一性に注意すべき義務があるとすると、短時間のうちに多数の手形、小切手の決済を画一的に処理しなければならない銀行の当座取引事務は非常に煩瑣なものになり、要求されている確実性、迅速性は著しく阻害されるばかりでなく、もしかかる取扱を認めるとすれば、当座取引口座の名義人は、一人一名義の原則を厳守し、本名のほか通称等によることさえ許さないとする前記取扱の趣旨を没却する結果を招来するから、外国人が銀行に対し、本名と異なる日本名をもって口座名義人とすることを約した以上、以後、その当座取引には届出の日本名名義をもってしなければ決済を受けられないというのは当然であり、従って、このような場合、銀行としては、口座名義人として登録してある氏名のみを取引ある者として取り扱えば足りるものと解しなければならない。そうすると、本件において、被告銀行新宿支店の係員がファイルに綴じこんだ印鑑届の表面に平野弘政とのみ記載し、それが尹仁錫と同一人であることを覚知できるような事項を記載しなかったこと、および、そのようなファイルの表面のみを索引して「取引なし」と判断したことには、何ら過失はないものというべきである。

もっとも、被告銀行新宿支店が昭和四〇年四月一三日、手形交換所に対して、銀行の錯誤を理由として取引停止取消請求をしたことは当事者間に争いないところであるけれども、≪証拠省略≫を総合すると、被告銀行がかかる請求をしたのは、被告銀行が本件約束手形を不渡処分にしたことについて、過失があったことを認めたわけではなく、原告の懇請により、原告の受けた銀行取引停止処分の解除をしようと図ったが、東京手形交換所規則には停止処分解除の事由が限定されており、本件のような場合には右規則第二四条により、銀行の錯誤を理由とする以外に適切な方法が認められていないため、被告銀行新宿支店は、あえて右の理由により取消請求をしたものであることが認められるから、かかる事実があるからといって、被告銀行がその新宿支店係員の過失を自認したものであるということはできない。

四、そうだとすると、被告銀行新宿支店係員が、尹仁錫名義で振出された本件約束手形を取引なしとして不渡処分にした行為は債務不履行にあたらないのはもちろん、不法行為であるともいえないから、その余の点について判断をまつまでもなく、原告の本訴請求は理由がない。よってこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 下関忠義)

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